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一ヶ月だけ禁酒する人たち [旅行]

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チュニス2日目くらい、タクシーに乗った際に運転手になんとなく、「あんたは断食してるのか?」と聞いたことがあった。

カイロにいた頃ならば、こんな質問は間違ってもしなかっただろう。運転手がここぞとばかりに宗教談義をふっかけてくるのが目に見えているからだ。しかし、チュニスの人たちがなんだか観光客に対して大人しいような気がしたので、僕もついつい構ってみたくなったのかも知れない。

その若い運転手はもちろん断食しているとの答えだった。さらに、「酒は飲まないのか?」と尋ねると、「ムスリムは神聖なラマダーン月には酒など飲まないものだ」という答え。やはり普段は酒を飲んでるのかな、と思わせるような言いっぷりで、不思議な感じがした。

カイロの場合は、ラマダーンだろうがそれ以外の月だろうが、酒を出す店は出すし、出さない店は出さない。まあそもそも酒を出す店がそれほど多くないというのもあるのだが、飲酒に対する姿勢は1年中一貫しているんじゃないだろうか。ところがチュニスでは、普段は酒を出す店が、ラマダーンだけは出さない、という現象が起こっている。そういう姿勢が、個々人の飲酒習慣をも規定しているような気がしたのである。

さて運転手、「今月酒を飲んでいるのはガマルタ(チュニス近郊のリゾート地)に泊まってる外国人くらいだよ」と言う。しばらくすると運転中だというのに突然携帯電話を取りだし、通話をはじめた。そしてこちらに向かって、「お客さん、いつ欲しい?」と聞いてくるのだ。彼の知り合いで、そのガマルタとやらで働いている奴を通して、酒を買ってくれるというのである。

僕は慌てて、「ただチュニジア人がどのようにラマダーンを過ごしているのか、聞きたかっただけだよ」と言い訳をして、それについては丁重に断りを入れた。なんだそうか、と、携帯をしまう運転手。決して押しつけがましくない。メーターどおりの金額しか決して受け取ろうとしなかったこの運転手は、エジプト方言を話す奇妙な観光客をどう思ったのだろうか。

写真はシーディー・ブー・サイードの猫。本文とは関係がない。

冷酷者セリムのフィギュアをゲット [旅行]

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コレクター魂をくすぐる一品をイスタンブル・アタテュルク空港にて入手。「冷酷者」セリム1世のフィギュアだ。7リラ。セリムと言えば、言わずと知れた、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン朝君主。トルコ史の中ではオスマン朝の領土を格段に広げた大英雄ということになるだろうが、エジプトファンにとっては不倶戴天の敵である。画鋲をさして遊んでやろうか。
selim3.JPGラインナップにはメジャーどころが揃っている。初代のオスマン・ガーズィー、バヤジト雷光王、メフメト征服王、それから最後はアブデュルハミト2世まで。不思議なのは、日本では一番知名度が高いと思われる、スレイマン大帝が入ってない。第2シリーズの予定でもあるのだろうか。その際には是非アフメト3世も加えて欲しい。

スルタンシリーズの他、スルタンの母后シリーズ、オスマン朝官職シリーズ、セルジューク朝シリーズなどもあるようで、コンプリートはなかなか難しそうだ。

チュニスのラマダーン [旅行]

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でもってチュニスのラマダーンだが、自分のアラブ勘がすっかり衰えてしまっていることを痛感させられた。あるいは直前にいたイスタンブルのラマザンがあまりにも緩すぎたせいか。

まず昼飯を食える場所が見つからない。

ブルギバ通りという目抜き通りでは、ガイドブックに載っているような名店がほとんどすべて、日中閉まっているのだ。思い出してみればカイロでも、日中はそんな感じだったかも知れない。しかしカイロではマクドナルドみたいなファストフード店があったし、贅沢すればヒルトンなど高級ホテルのフードコートに逃げるという手があった(もちろん留学中は自分の家があったので、昼食難民になる心配はまずなかったのだが)。しかしチュニスでは、マクドもケンタも、それらしい外資系ファストフード店はついぞ見かけなかった。また土地勘のないチュニスでは一体どこが高級ホテルなのかも分からない(滞在最後の方になって、ようやく分かってきたが)。そんなわけで毎朝、ホテルで出る朝食のパンを2,3個くすねておいてはお弁当にする日々が続いた。

それからお酒の飲める場所が見つからない。

なんでもラマダーン中は、普段酒を出すようなオープンエアのカフェでも、酒の販売を自粛するようなのだ。「セルティア(チュニジアの国産ビール)があるよ」と言う客引きについて行って裏道の食堂に入ると、出てきたのは「セレスティア」という、ノンアルコールビールだったという事件もあった。厚かましくもその客引きがチップを求めてきたので、さすがの僕も「エンタ・カッダーブ!(嘘つきめ!)」と叫んでしまった。しかし酒販売の自粛現象も、エジプトでも見られたことだし、土地勘さえ身につけばこれまた外資系ホテルのバーでビールの一杯くらい飲むのは訳もないことだったのだが。

その他、今回泊まった宿がメディナ(旧市街)の奥の方にある、雰囲気は良いが不便なところだったのもしんどさを増す要因だったり、なによりもこの真夏のラマダーンというのが予想以上にきついものでもあった。ともかく、同じアラブ諸国と言ってもエジプトとチュニジアではかなり違う。はじめていく土地をなめたらいかんということですな。

上の写真は夜のメディナの様子。日没後一時間くらいすると、イフタールを済ませた人々がじわじわーっとカフェに集まってくる様子が見られた。

チュニスのベーエヌ [旅行]

さてまじめな備忘録。

イスラーム世界研究マニュアル


イスラム研究者の友、『イスラーム世界研究マニュアル』に載っているチュニジアの研究施設ガイドを参照して、さっそく国立図書館を訪ねてメディナ(旧市街)に足を伸ばす。ところが、開いてない!
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周りの人に聞いてみると、「4月9日通りに移転したよ!」とのこと。そう、国立図書館は2005年に新館に移転していたのだった。詳しくは公式サイト参照。上記マニュアルに書いてあるのは旧館の住所なので、今後利用するかたは注意が必要。もっとも新館も、旧市街のカスバ門から出れば歩いて行けるほどの距離にあり、それほど慌てることもない。

写真を取り忘れたが、新・国立図書館は高層の立派な建物。この施設、アル=マクタバ・アル=ワタニーヤというのが正式名称だが、多くの人はダール・アル=クトゥブと呼んでいて、タクシー運転手などには後者でないと通じなかったこともあった。要はどちらでも良いのだろう。フランス語の略称はBNTだ。

実は日本を出る前に、公式サイトのメールアドレスに「これこれこういう写本を見たいのですが」と問い合わせていたのだが、英語で書いたせいかまったく返事がなく、とても不安だった。しかし、実際に乗り込んでみると利用手続きはいたって簡単。英文の学位証明書など身分を証明するものを見せれば、2週間利用できる券をすぐに発行してもらえた。手数料5ディーナール。

写本の閲覧室は受付と同じ一階。カードボックスの他、オンライン検索も整っている。写本現物を見ることができるが、写本にさわる際には外科医が使うようなゴム手袋をその都度はめさせられるのに驚いた。ここのコレクションは、フサイン朝時代にゼイトゥーナ大モスクに置かれていたアフマディーヤ・コレクションと、国内のいろんなモスクから収集したアブダッリーヤ・コレクションの2つからなる。ハフス朝時代から伝わる写本やオスマン帝国から買い取った写本などもあるそうで、総数は少なくてもなかなか侮れないラインナップだ。ちなみに前者についてはカタログが手に入る。後者もアラビア語のカタログがあるそうだが、未確認。

マイクロ複写は一こま0.5ディーナールと明朗会計。その場で支払いを済ませればすぐにコピーしてもらえるようだが、今回はちょっと量が多く、日本へ郵送してくれるよう頼んでおいた。さて無事に届くかどうか、心して待っていよう。

トルコのラマダーン [旅行]

トルコとチュニジア、合わせて10日間の資料調査へ。どうしても時間をずらせず、どっぷりとラマダーン期間中の滞在となってしまった。

トルコ滞在は3日間のみ。六時間の時差に体を慣らすので手一杯、あまり満足な調査はできなかったが、副業関連の面白ネタはいくつが見つかった。

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ナシード(宗教歌)のアイドル歌手、サーミー・ユースフのコンサートをやるというポスターが、町のあちこちに。新聞をみると、あのセゼン・アクスがサーミーにトルコ語歌詞を書いてプレゼントしたとかいう芸能記事も見つかる。思えば僕が最初にサーミーのCDを入手したのもイスタンブールだった。コンサートが開かれる日には僕はトルコを離れていたが、依然としてトルコでもサーミー人気が高いのを確認した。

ところであるトルコ語新聞ではサーミーのことを「アゼルバイジャン人」と書いていた。本当ならアゼリー系イラン人という方が正しいと思うが、トルコではそういう区別はしないのだろうか。

さてさて、ラマダーンである。僕が中東現地で体験したラマダーンと言えば、8年前のカイロが最後となる。あのときは留学中だったので、朝昼飯を食う場所に困ることなどはなかったが、カイロのムスリムたちはそれなりにまじめに断食を実行していたように記憶している。たとえば、カフェやレストランは昼間は休業していたり、いつも缶ビールを買いに行っていた雑貨屋が「ラマダーンは酒は売らない」と言い出したり。

ところがどうだ、イスタンブルでは昼間っからどのレストランも堂々と営業しているではないか。しかも中には欧米からの観光客だけでなく、地元のトルコ人とおぼしき客も結構入っていて、みな普通に飲み食いしている。トルコ人は(イスタンブルの人は)断食をしないのか?

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しかし、夜になって旧市街(スルタン・アフメット)に行って見ると、黒山の人だかり。いかにもムスリムといった感じの家族連れが、弁当を持って芝生でご飯を食べていた。モスク周辺では屋台が出て、軽食やらドンドルマやら、リンゴ飴や綿菓子などを売っていた。こういう人たちは昼間から断食をしていたのかな、と思った。

しかし、かたや敬虔なムスリムがいるかと思えば、そこからベイオウルへ引き返すと、飲み屋は地元客で大賑わい。みなひたすらにラクの瓶を傾けてている。全く、二面性のある町である。僕ももう少しメロンをつまみにラクを飲んでいたかったが、仕事が待っている。後ろ髪を引かれる思いでチュニスへ飛ぶ。

これで好漢になれた [旅行]

なんだかもう遙か遠い昔のように思えてきた中国旅行。記憶が風化しないうちに少し書いておく。

到着した翌日、とにかく万里の長城に行った。「不到長城、非好漢」という言葉があるそうで、これで僕もようやく好漢の仲間入りを果たしました。この手のことわざというか決まり文句って、いろんな所にありますな。ちなみに僕が「結構」と言えるようになったのはつい最近のことです。

banriこれは娘が描いた絵、というか本人に言わせれば「地図」だとのこと。ロープウェーに乗るときに脅かしたせいか、地図にもばっちりと矢印で「こわい」と書き込まれています。ロープウェーを降りると簡易便所があって、くさいにおいがしたのも彼女には印象深かった模様。「こわい」とか「くさい」ばかりではよろしくないと思い、「景色が良いとか、なにかいいことも書いておいたら?」とサジェストしたところ、娘はそのまんま「けしきがいい」とも書いてくれました。
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文明の大いなる一歩 [旅行]

db5aaddc.巷ではWBCだなんだと騒いでいるようだが、日韓がちまちまと争っている間にも中国は文明の大いなる一歩を踏み出している。これは北京の男子便所で撮った写真(そんな所で写真なんか撮るな!)。

「向前一小歩 文明一大歩」

一歩前へ、それが文明の大いなる一歩。たかだかトイレでやたらと仰々しいスローガンが掲げられていて苦笑する。そういえば日本でも飲み屋のトイレなどで、「急ぐとも 心静かに 白糸の...」などという短歌が掲げてあることがあり、ああいう無駄な風流さ(だか下世話なんだかよく分からない)が僕は好きだ。

と言うわけで、北京に行って来ました。長城に登り、故宮を見、北海公園で太極拳する人たちを見て、ああこれが小さい頃からあこがれていた中国なんだなあとしみじみ思った。飯も、北京ダックを食べ、満漢全席(の廉価版)を食べ、油条に包子に四川料理に紹興料理を食べ、羊肉しゃぶしゃぶに清真料理を食べた。極楽。

しかし、一番感動したのは北京動物園だったりする。たかが動物園とあなどるなかれ、春霞の中に糸柳がぼーっと浮かび上がる光景は、まるで教科書で見た清明上河図のように美しい。いや、ホントに。子供連れの旅でもなければ、限られた旅行期間にこんなところ行く人は多くはないと思うが、たとえば明の十三陵なんかをキャンセルしてでも動物園には行く価値があるように思う。パンダも大勢いるし。

オープンエア・ミュージアム完成へ [旅行]

9e834fd4.jpgカイロのイスラム地区を完全リニューアルして「オープンエア・ミュージアム」にしてしまおうという計画が、もうほとんど完成に近づいたというニュース。Ahram Weeklyより。写真も同サイトから。

記事によると、10月からは完全歩行者専用ゾーンとなるらしい。ロバと馬車と軽トラが行き交うあの活気あふれる情景が見られなくなってしまうとしたら、ちょっと寂しい気はする。

写真がうまく撮れているせいだけかもしれないが、かなりきれいになっている。改築工事中のてんやわんやな様子を思えば、この状態はにわかには信じがたい。まあ想像するに、カラーウーン病院など主だった建物のあたりだけがぴかぴかになっていて、バシュターク宮殿とか微妙なあたりは廃墟のまま、っていう感じではなかろうか。あの辺、人が住んでるからなあ。

ともあれ、オープンエア・ミュージアムが完成した暁には、ぜひともニャンマゲのようなマスコットキャラを置いてもらいたい。ところで関西地区では、ニャンマゲとヒコニャンが似ている件については話題にしてはいけないのだろうか。

別了満地可 [旅行]

66d45f66.JPG連日気温1度Cのモントリオール。泊まった宿と会議場の間には広大な中華街が広がっており、そのためカナダだというのに毎日のように中華料理屋に行った。

驚いたのは、「小肥羊」が出店していたこと。以前、深センでつれ合いの友人に連れて行ってもらったことがあるが、まさかこんなところにまで進出しているとは思わなかった。ちなみに今は日本にも何点か出店しているらしい。

その他、粥麺家、茶餐丁など香港食の店が多く、とても幸せな気分になれた。もちろん、CD、dvdを売っている店もあり、香港ファンには飽きることがない町だ。土産に「カンフー麻雀2」のDVDを購入。「カンフーハッスル」の大家夫妻役の2人が出演するおバカ映画だが、冒頭にチャングムのパロディーなどがあり、東北アジアの大衆文化を論じるには必見の一本だ。

さて肝心の学会の方だが、北米の学界の雰囲気に触れることができたのは大きな収穫。普段論文で読んでいるような研究者たちが、実際に丁々発止と議論を戦わせるのを目の当たりにできたのはかなり興奮した。しかし、彼らがどういう議論を好み、どういう研究を好まないかという傾向も何となく見えてきた。まあ、英語で発表したり論文を書いたりする際には、ある程度彼らの気に入りそうな議論をすることは必要だろうが、かといって彼らの好みだけが絶対的な基準でもないのだということにも注意したい。中東研究者はヨーロッパにだって中東にだっているのだ。もちろん日本にもいる。それぞれが異なる好みを持っているのだ。

今回の学会を見て、学会発表以上に興味深かったのが、フィルムフェスティバルだ。「ヤコービエン・ビルディング」はやはり時間の関係上見ることはできなかったが(長すぎるのだ!)、1時間程度のドキュメンタリー映画を見ることはできた。Me & the Mosqueと言う作品で、北米在住のムスリマの監督が、モスク内での男女の仕切りをなす「パーティション」の存在に異議申し立てをするという内容。意外と面白い。こういう短編をいくつかまとめて上映する機会があれば、日本でもお客さんが入るんじゃないかと思った。たとえば、日本中東学会なんかでやってもらえると面白そう。ちなみに上記タイトルをyoutubeで検索してみると、本編内容がすでにアップされていたりする。おそらく非正規版だろうからリンクは貼らないが。

それから、空いた時間にMcGill大学のイスラム研究所図書館を見学。アポ無しで突入したのだが、何の手続きもいらずフリーパス。学会開催中の特別措置だったのかも知れないが(館内には「MESA会員の皆さんようこそ」とう張り紙があった)、まあ何とも度量の広いことだ。探してた本を一冊丸ごとコピーする。

モンレアル行き [旅行]

d72833b1.jpg明日から学会のため、しばらくカナダに行ってきます。初めての新大陸。

北米の中東研究者がわんさと始まる学会で、相当な規模だ。フィルム・フェスティバルまでやるらしい。豪華。ラインナップの中には「ヤコービエン・ビルディング」なんてタイトルも見つかる。せっかくだからまた観ておくか。タダだし。日本の中東学会もこれくらいやってくれるとうれしいのだが。

しかし、モントリオールで中東の映画といえば、2005年のフィルムフェスでグランプリにノミネートされた「Dunia」だろうに。あー町をふらふら歩いてたら映画館で上映してた、なんてことにならんだろうか。

英愛探訪記6:チェスター・ビーティー [旅行]

1b7bcfee.JPGニューヨーク出身の鉱山王が、世界中の古書を買いあさり、それらをみんな隠居地ダブリンに寄付してできたという、チェスター・ビーティー図書館。個人で集めたにしては質も量も驚くべき水準を誇っている。どんな経路で集めたのか、中世アラビア語の写本も有名な作家の直筆本などがちらほらあり、その道の人には見過ごせない。

場所はダブリン城遺跡の中、ダブリン市庁舎の隣にあるのだが、北岸から歩いて来たら思いのほか道がややこしくて、たどり着くのに難儀した。この町、中世風のごてごてした建物が溢れている。

chester城塞内の芝生広場に面した、風見鶏が立っている建物がチェスター・ビーティー図書館。入場料は無し。受付で「Admission Officeはどこですか?」と尋ねると、まごまごされてしまったが、研究目的で来た旨を告げ、あらかじめ用意した登録用紙(これこれ)を見せると「二階の閲覧室へ行って下さい」と案内される。

閲覧室ではメールのやり取りをした司書の人がいて、彼女に、サインをした登録用紙やらパスポートやら大学院の証明書やら一連の書類を渡す。入館証などは特になく、極めてアットホームな雰囲気。読みたい写本はすでにメールで伝えてあったので、きちんと用意されていて、僕が使うべき席までもセッティングされていた。至れり尽くせりだ。ただし、今回読む写本は非常にもろくなっているということで、机の上に大きなクッションが設置されてあった。その上に写本を置いて読めと言うことらしい。

閲覧室は狭いながらもいろいろと工具が揃っている。A.J. Arberryによるアラビア語写本目録全7巻プラス索引もあり、とりあえずチェック。ただし最近数年で購入した新着写本については、目録は未刊行だということで、調べることはできなかった。

この図書館、使い勝手はいいのだが、注意すべきは閲覧室の開館時間が短いこと。10時から17時までとあるが、実際には16時半には「写本を片づけるから」とか言われて追い出されてしまう。昼休みも1時間15分きっちり閉まる。土曜日は開いてない。なかなか効率的に使えないのが難点だ。

それにしてもすごいのは、チェスター・ビーティー卿の守備範囲の広さ。彼のコレクションはアラブ・中東関連に留まらず、インドや東アジアまで覆っている。閲覧室でたまたま知り合った日本人研究者の人によれば、ビーティー卿は大正時代に来日しており、おそらく神保町の一誠堂あたりを通じて、良い本をごっそりと買っていったそうだ。その中には、10点くらいしかない絵巻物の1点があったりして、日本の古典文学者にとってもマストゴーな研究機関なのだそうだ。僕はそれ以前に、こんな最果ての地(失礼!)で日本文学研究者と出会えるとは思わなかったのだが、それはあちらこそそう思われたことだろう。

限られた調査期間ではあったが、めぼしいものを一通り見せてもらい、あとは帰国後にコピー依頼をすることにした。

英愛探訪記5:ダブリン [旅行]

084cb14f.JPGさてダブリン。

さすがにロンドンから日帰りで通うわけにはいかない。ネットでRyan Airのサイトにアクセスし、ロンドン・ダブリンの往復航空券を予約。たぶんこれがロンドン・ダブリン間の最安交通手段だろう。バスと船、という手もあるかも知れないが、時間がかかりすぎる。当日はヴィクトリア駅から郊外のガトウィック空港に向かい、RyanAirからメールで知らされた予約番号と引き替えに搭乗券発行、待ち時間ほとんど無しでそのままダブリンへと、大変スムーズ。ダブリン空港の検問で滞在目的などいろいろ聞かれたのは驚いた。EU内なのでハンコは省略かと思いきや、ばっちり押された。

hao空港からはバスで30分ほどで市街地に。町並みがロンドンと似ているが、もっとごてごてと勇ましい、中世っぽい香りの残る町だ。リフィー川の北岸に宿を取ったが、あたりは中華料理屋が多く、アジア系住民もちらほら見かける。ダブリンの中華街か?

そう言えばたまたま入ったフィッシュ・アンド・チップスの店では、英語の通じないウェイトレスが働いていたが、あの人なんかは見た感じ東欧の人なんじゃないかと思った。町でもたまにポーランド語の看板を見かけたし。

偶然付いた日が、アイルランドの国技「ハーリング」の決勝戦の日に当たり、街中ひいきチームのユニフォームを着た老若男女であふれかえっていた。ハーリングというのは初めて聞いたが、ホッケーのスティックを持ってラグビーゴールにボールを入れるゲーム。ただしゴールの下半分にはサッカーゴールのようなネットが張ってある。一度見ただけではよくわからん謎のスポーツだ。『大麦を揺らす風』の冒頭シーンで主人公たちがやっていた、とは、つれ合いの指摘。

続く。

英愛探訪記4:イグアノドン [旅行]

91b5ca2f.JPGオクスフォード。子供連れでにぎわう自然史博物館は、イグアノドンの化石が展示されていることで有名。調べものの合間に足を伸ばしてみた。






iguano1最初にイグアノドンの化石を発見したのはアマチュアの化石マニアだったそうで、出てきた巨大な爬虫類の骨をイグアナみたいなものだと勝手に解釈し、イグアナの大型判みたいな復元図を描いた。なぜだか鼻の頭に円錐形の角を生やした巨大な珍獣「イグアノドン」は、当時のイギリス社会でたいそう流行したみたいで、新聞の風刺漫画には愛嬌のある顔をした巨大イグアナが題材にさかんに取り上げられたらしい。イグアナを漫画に書いて何を風刺していたのか知らないが、日本のツチノコ・ブームみたいな感覚だろうか。

iguano2しかし、オクスフォード大学のさる偉い学者が、この爬虫類が二足歩行をしていたことを突き止め、新しい復元図を作成。鼻の頭の尖った角は、実は角ではなく、前足の親指の爪だったことも明らかになる。これが世に言う恐竜の発見である。この発見をもって、太古の昔、地球は二足歩行をする巨大な爬虫類によって支配されていたということが明らかになったのだ。


iguano4ただし、この「二足歩行」というのも最近は見直しがなされ、歩行の際に前足も少しは使ったんじゃないか、と言うトレンドになりつつあるという。昔図鑑で見たイグアノドンはぴしっと直立していたと思うが、オクスフォードの骨格見本やパネルは、心なしか前傾気味だった。

iguano3私事になるが、イグアノドンの話をすると、福井に住んでいた小学2年生の頃を思い出す。当時の僕は恐竜少年で、いつも恐竜のことばっかり考えていた。ちょうどその年は冬休みに「五六豪雪」というやつに見舞われ、家から一歩も出られなかったので、暇を持て余した僕は子供用の恐竜図鑑から気に入った恐竜の絵や、分類・体長等のデータを手製のカードに書き抜いて遊んでいた。手製のカードというのは、当時父が会社のコピー機で大量に作ってくれたB6版くらいの紙で、そんなのを毎日描いていたら結構な分量のファイルになったような記憶がある。あれ、引っ越しの時に全部捨てちゃっただろうか。

で、その頃の僕の夢は、いつか大阪と東京の自然史博物館に行って、本物の恐竜の化石を見ることだった。大阪の自然史博物館は、5年生くらいの時に大阪城と一緒に親に連れて行ってもらったのだが、東京は田舎で少年時代を過ごした僕にとってはなかなかに遠くて、結局大学に入ってからようやく見に行けた。もちろん、僕の持っていた恐竜図鑑にはアメリカやイギリスの恐竜の本場の博物館の写真もいっぱい紹介されていたのだが、子供の想像力ではそんな外国にまで自分がいける日が来るとは、とうてい思えなかったのだ。しかし、30代も半ばになり、イグアノドンの本物を見ることができた。死ぬまでにニューヨークに行って、本物のティラノサウルスを見に行きたいものである。

英愛探訪記3:ボドリアン [旅行]

4d068ac5.JPGオクスフォードへは、ロンドンのパディントン駅から快速電車で50分ほど。十分日帰りできる距離である。「快速」と書いたが電車や時刻表にはExpressなどという表示は無いので、くれぐれも各駅停車と間違わないようにしたい。上記の倍の時間をかけて田園風景を眺める「イングランド車窓の旅」になってしまうからだ。



牛津さてオクスフォードは中世の町並みがそのまま残る風光明媚な場所。イギリスに時代劇があれば、ここでは絶好の撮影ポイントになりそう。ついつい太秦の映画村を連想してしまう。観光客も多いし。

カレッジの古い建物がそのまま観光名所として開かれているので、色々と見物していきたいのだが、とりあえず調査地であるボドリアン図書館へ急ぐ。ツアーの訪れる「旧」ボドリアン図書館の入り口右手、Addmission Officeをまず訪ねる。

旧館ここで利用証の手続きとなるが、今回自分のミスから大変なことになりかけたので、恥を忍んでその失敗談を記しておく。

アドミッション・オフィスでは、事前にネットで送られてきた申請書(このpdfファイル参照)をプリントアウトして埋めたものと、大学院の英文修了証明書、それからパスポートを係の人に手渡す。しかし!申請書に目を通す係の人の表情が険しい。どうやら不備があるようだ。今回は写本の現物を見る調査なので、あらかじめその旨をメールで伝えてあったのだが、写本現物を見るにはボドリアン図書館では、大学教授などしかるべき人からの推薦書が必要とのこと。推薦書と言っても、先に送られてきた申請書の右半分が推薦書になっており、必要箇所にサインや肩書きを埋めるだけでいいのだった。そこで日本にいるうちに指導教官(職場のボス)からサインを頂いていたのだが、係の人が言うには、サインが必要な2箇所のうち1箇所にサインがない、だから写本を見せる許可を与えるわけにはいかない、ということだった。確かに、改めて自分で申請書を見てみたら、ぽっかりと空欄になっている箇所がある。係員曰く、急いで日本に連絡を取ってきちんとした書類をファックスしてもらうか、オクスフォードに在籍している新しい推薦者を捜せ、とのこと。そんなの無理だよ~!しかし、申請書の作りもずいぶん紛らわしいじゃないか!と言いたいところをぐっと我慢。感情にまかせて主張しても、苦手な英語ではうまく伝わらないだろうし、第一そういうアピールはこの国では決して良い方向にはつながらない様な気がしたのだ。だってここは紳士の国。

とりあえず冷静を装い、内心うわー、どうしよう!?と慌てながらも、係の人には東洋部門担当者と連絡を取るから待て、と温かい申し出をいただき、不安ながらもそのまま事務所内で粘らせてもらう。待つこと5,6分、東洋部門の人ではなく、事務所の上役らしき人が現れる。係の人が事情を説明する。すると上役らしき女史はにっこり、「今度ボドリアン図書館に来たときに、改めて完全な申請書を出して下さい。今回は特別に写本閲覧を許可します」とのこと。また、「気にしないで下さい。こういうケースは良くあることなのです。我々の申請書がよくないのです」とまで言って頂く。

許可が出た所で、そのまま登録手続きに移る。その場で利用証の写真撮影。1週間利用の登録料5ポンドを払い、そして「宣誓文」を読みあげて、利用証交付と相成る。「宣誓文」については事前に聞いていたし、英語で何か読みあげさせられるものだと思っていたのだが、事務室には100カ国語以上で宣誓文を翻訳してある小さなファイルが常備されていた。当然僕は日本語で読みあげることになったのだが、はて、こんなの読んだ所で誰が理解するんだろう?と疑問に思いつつも、宣誓とは自分の良心との対話であったかと思いいたる。なんて。ひととおり手続きが終わり、係の人に「次は必ず正しい書類を持ってきます」と言うと、あっさり軽いジョークとして取られて愛想笑いされる。事務所を後にする。

新館東洋部門の閲覧室は、観光ルートになっているボドリアンの通りを隔てた北向かい、新館の中にある。荷物を預けて閲覧室へ行くと、あらかじめメールで伝えてあった必要な写本がすでに用意されている。すばらしい手際の良さ。もちろん、追加で写本を出してもらうのも可能。出てきた写本はいずれも帙に収められており、さすがに保存状態がよい。

ボドリアンのアラビア語写本カタログを見せてもらったが、18世紀末に刊行された超大型図書が2冊。すべてラテン語で書かれているので、はじめは出版年すら分からないほどだった!(MDCCXX...というやつ)おそらく他の機関ではなかなかお目にかかれなさそうな代物なので、よーくブラウジングしておく。それにしても、このカタログをまとめた18世紀の先達は、21世紀になって東洋から僕のような人間がこのカタログを読みに来ることを想像しただろうか?いや、そもそも、おそらく当時のヨーロッパにあって最高のアラビア語の知識を持っていたであろう彼らは、同時代の誰かに向かって知識を公表することに、どういう意味を見いだしていたんだろうか?同時代人の中にはほとんど誰も彼の知識に付いていけるような人はいなかっただろうに。たとえ誰にも通じなくても、目の前にある事柄をひたすら書き残しておく、黎明期のオリエンタリストが持っていた知の征服欲とでもいうものに、身の毛がよだつ思いがした。

ここで、恐ろしく些末なことだがメモ。ボドリアンの東洋部門で写本の配架番号に使われているMarshという略号とMarshallという略号、この2つは実は全くの別物であることが明らかになった。今回、Marshall 36という写本を頼んだつもりが、Marsh 36という無関係の写本が出てきたりして難儀した。もちろん、ちゃんとMarshallまで書かなかったこちらが悪い。いろんな所にトラップが仕掛けられているようで、ボドリアン、侮れない。

さて、ひととおり調査を終え、写本のコピーを申請する。写本のコピーは刊行本を複写するのとは別の用紙があるのだが、詳しくは閲覧室備え付けの申請書の注意書きを見れば問題ない。料金は一コマあたり0.6ポンドくらい。今回見た写本はいずれもマイクロフィルムにはなっていないため、複写するには一から撮影してマイクロフィルムに訳という作業を経るはずだ。しかしこっちとしてはマイクロよりはデジタルデータとしてCD-Rなどに保存したものをもらいたいので、係の人にその旨聞いてみた。今問い合わせ中。

代金の支払いはキャッシュはもちろん、クレジットカードでも可能。現物は日本に送ってもらうことにした。さて。

東方おまけはオクスフォード駅前の中華料理屋「東方不敗」。屋号と建物とがおそろしくミスマッチだが、ブリジット・リンのような妖しい店主がいたのかも知れない。

英愛探訪記2:オイスターと大英図 [旅行]

3f42873e.JPGまずはロンドン。

渡航前、「ロンドンでは地下鉄に乗るだけで千円かかる」という恐ろしい話をいろんな人から聞かされて恐々としていた。しかし、「オイスターカード」なるものをデポジット3ポンド(750円)払って買えば、空港から市街地まで2ポンドで来れたし、その後も1回1ポンドくらいで済む。横浜市営地下鉄くらいの水準には抑えられると言うことだ。便利だし、1週間くらいの滞在でも十分元は取れるような気がする。ちなみにオイスターカードにお金を補充するのは「top up」というそうだ。

宿代の方も、普通に探せば恐ろしく高く付きそうだったが、今回はつれ合いのお母さんの知人のつてで、比較的安い値段でフラットを借りることが出来た。後でつれ合いに指摘されたのだが、今回泊まっていた辺りは、ニック・ホーンビーの「ハイ・フィデリティ」の主人公が住んでいる設定の地区のほど近くだったらしい。まあそれはともかく。

で、大英図書館だが、閲覧室の利用証は作ったものの、写本の閲覧はできなかった。できなかったというのは、つまりは時間が足りなかったからだ。残念と言えば残念だが、今回の旅の目的はむしろボドリアンやチェスター・ビーティーの方にあったので、大英はまた後日、ということにしたのである。酸っぱいブドウを嘆いている訳ではない。(ちなみに、大英所蔵のアラビア語写本いついてはこれらのカタログ参照)

上の写真はEdgware Roadの八百屋で、看板にアラビア語が書いてある。この辺り、ハラールミートの店などもいくつかあった。そう言えば、サーミー・ユースフはロンドンの出身なんだよなあと思い出す。「アゼリー」と掲げてある雑貨屋などもこの界隈で見かけた。

オクスフォード編に続く。

英愛探訪記1:準備編 [旅行]

この夏2週間ほどかけて、イギリスとアイルランドを巡ってきた。目的は中世アラビア語写本の調査。

訪れたのはロンドンの大英図書館、オクスフォード大のボドリアン図書館、そしてダブリンのチェスター・ビーティー図書館の3箇所。

出発前、まずは情報収集。大英とボ図書館で去年調査を行ったO君から聞いた話では、どちらもあらかじめメールで連絡さえしておけば、手続きには何の不自由もないし、写本の現物も問題なく見せてくれるとのこと。つまりはメール連絡が必須と言うことだろう。

さっそくそれぞれの公式サイト(上掲リンク参照)から関係部局(大英1大英2ボドリアンチェスター)のメールアドレスを調べ、自分が何者で専攻は何で、何が目的かをメールで伝える。すると1週間もしないうちにそれぞれの担当者から返事を頂く。あとの手続きは機関によって違うが、チェスター・ビーティーでは「利用日程の1ヶ月前までにご連絡下さい」という決まりがあるそうで、いずれにせよ早めに連絡しておくに越したことはない。

ともあれあちらの反応をもらったら、日本の所属機関の証明書やら、向こうが指定している申請書やらを準備しておく。

カイロ帰り [旅行]

c8e03486.JPG短期間ですが、エジプト・カイロでの調査旅行に行ってきました。

今回の旅の目的は、カイロ国際ブックフェアでの本の買い出し等。普段このブログでは研究上の話は書かないようにしていますが、今回はカイロに滞在される諸氏、諸兄姉にたいへんお世話になり、おかげでスムースで快適な調査旅行ができましたので、ここに記してお礼を言いたいと思います。本当にありがとうございました。(留学生の方でこのブログの存在を知っている方が意外と多かったので、たいへん恥ずかしい思いをしました)

ちなみにカイロ市街中を探しても見つからなかった「Fulla人形ヒジャーブ付」は、空港の免税品店で無事購入できました。16米ドルでした。

写真は例のケバブ屋。店長とシャアバーン・アブドゥッラヒームのツーショット写真が掲げられていました。そもそも僕の留学中、colacacoさんから教えてもらった店ですが、駐在日本人社会にも留学生ネットワークにも、もちろん『歩き方』にも伝承されていない「隠れた」名店になっていました。どうぞごひいきに。

イスラム建築の使い方 [旅行]

6b4da316.JPGと、下で「オープンエア・ミュージアム構想」についてさんざん文句を書いたが、この計画にはどうやらもう一つの大事な側面があるらしい。

例えば下で挙げたマドラサ、同じ敷地に「子供のための芸術開発センター」との看板が掲げられた一区画を持っていた。詳細は分からないが、子供の情操教育に関係する政府系の施設なのだろう。

また、このマドラサの向かいには、おそらくオスマン時代の邸宅が再利用されて、今は有名なナシール・シャンマーの「ウード・ハウス」として知られる施設がある。

アズハル界隈で言えば、長らく改装中だったカーイトバーイの隊商宿という遺跡は、今ではその一室一室が、若手芸術家のためのアトリエとして用いられている。写真はその中の一室の内装。油彩画家のアトリエのようである。

バイナルカスライン通りには、「テクスタイル博物館」との看板の掲げられた建物もあった。オープンは9月11日からということで、結局中身を見る暇はなかったが。

下のエントリで書いたとおり、古いものを守るという意味では全くお粗末な再開発計画のようにみえるのだが、やはりそれは外部者の勝手な思いこみと言わざるをえないだろう。改築後の各建物は、それぞれ現代的な役割を担わされて有効活用されているのだから。実際にカイロに住む人たちにとっては、古いものをただ残すというだけでなく(もちろんそれだけでも観光資源にはなるだろうけど)、それを自分たちにも役立つよう上手く使うことの方が大事なのだろうなあと思わされた。

ファーティミッド・ランド [旅行]

7b4183bb.JPG本職の方で重要な研究対象としているとある中世の歴史家がいるのだが、今回その人物が建立したマドラサ(学院)を見学に行った。場所はカイロ旧市街(イスラム地区)、アズハル・モスクの南東にある。

それほどメジャーな建築物でもないので、訪れる人とてなく、蔓草に覆われて鬱そうとした廃墟...というのを勝手に想像していたのだが、あに図らんや、ぴかぴか煉瓦で改築済みのやたらすっきりした建物だったので、拍子抜けした。写真ではただのモスクっぽい立派な建物にしか見えないかも知れないが、何が不満かというと、真新しすぎてありがたみがちっともないのである。

これはどうやら、エジプト政府が主導する「オープンエア・ミュージアム構想」とやらのおかげであろう。10年くらい前から唱えられている壮大な計画で、イスラム地区全体を「ミュージアム」にしてしまおうというもの。僕が留学していた3-5年前にも、ずいぶん多くのイスラム建築物が改修工事がなされていたが、今回見た限りでは、その工事もゆっくりと成果を上げている様子。

しかしその「成果」というのがくせ者で、もともと細かい彫刻が掘り巡らされていたはずの壁をコンクリートで塗り固めてしまったり、花崗岩と黒大理石を積み重ねた豪壮な門柱をコンクリート柱で代用してしまったり、色とりどりのタイルで覆われていた壁眼細工をコンクリートで塗り込めてしまったり...要するにすべてコンクリート造りのまっ白い建物にしてしまうのである。古い建物をそのまま保存するのは大変だとは思うが、なんとも味気ない話である。

以前読んだ英字新聞では、この「オープンエア・ミュージアム構想」のことを、「ファーティミッド・ランド計画」などと呼んで批判していた。カイロという町を初めて建設したファーティマ朝にちなんでのネーミングだが、同時に「ディズニーランド」的なテーマパークの出現に異を唱えてのものでもある。もしフトゥーフ門からズワイラ門まで、ネズミのぬいぐるみがエレクトリカルパレードをするというような徹底的な再開発が行われるなら、それはそれで面白いとは思うが。

イスラム地区の目抜き通りにあたるバイナルカスライン通り周辺の建物はほとんどが改築中か、改築済みで真っ白か、改築を待っている状態にある。古いものがなくなり新しいものに変わる。それを「味気ない」と非難するのは、よそ者の勝手な理屈なのかも知れないが、もう少しやりようがあるんじゃないかと思ってしまう。

幻のメガストア [旅行]

9f98f66b.JPGカイロ中心部からはかなり遠い、City Starsというショッピングモールを見てきたのだが、確かにでかい。ドバイ並みに立派だ。今までカイロにあったショッピングモール(アルカディアなど)がままごと遊びのようにさえ見える規模だ。

ここを訪ねたのは、今回の調査旅行の大きな目的の一つ(と言ってしまっていいのか?)である、Virgine Megastore in Cairo探しが目的だったのだが、結論から言うと、まだ出来てなかった。写真のように、白い幕に覆われたままであった。幕の隙間から覗いてみると、陳列棚など内装はほぼ完成しているが、商品が全く並んでいない。

知人の話では、もう4月の時点からOpening Soon!と広告が出ていたらしいが、未だこの有様。商品の輸入などの問題を巡って政府ともめていたりするのだろうか?現地で買った雑誌には、"September Open!"などとも書いてあったが、開いてないものは開いてないのだ。残念。

ちなみにこのCity Stars、メガストアを除いては、本屋もなければCD屋もない。あるのはただ服屋と飯屋だけである。このままでは、エジプト最大のショッピングモールが、見た目とお腹を満たすだけで、頭と心は満たされぬまま、ということになりかねない。メガストアの一日も早い開店を切に願う。

※なお、今の時点ではカイロでもっともCD、DVDソフトが手に入りやすいのは、アルカディア・モール一階のCDショップであろうと思う。

バルベス [旅行]

d67f4604.JPGパリに来て、チャイナタウンを見たと来たら、こっちも見にいかないといかんだろう。ということで見にいきました、アラブ人街バルベス。あの『アメリ』でお馴染みのパリ18区のはずれには、こんなアラブアラブしたところがあったとは驚き。

写真はSauviatというカセット屋。店のおじさんはアラビア語をあまり話せないようだったが、ベルベル人?それともヨーロッパ系?「ヨーロッパで最初のアラブ音楽専門店」と豪語するだけあって、店の雰囲気は古風でシック。「お薦めは?」と聞くと、パスカル・マシュアラーニーの新譜を出してきたのには笑ったが、「ライのおすすめは」と聞き直すと、面白そうなものをいくつか出してきてくれた。

大通りから一本入ってみると、さらに多くのCDカセット屋が並ぶ。中にはロターナ系のDVDソフトを並べている店もあり、そんな中の一軒に入ってみる。今度はアラビア語の達者な(というかアラブ人の)お兄さんが応対をしてくれ、ライについてのいろいろな情報を教えてくれた。彼などは、こちらのエジプト弁にもしっかりと対応してくれていたので、おそらくエジプトメディア発の情報にも親しむ若者なのではないだろうか。彼の話すアラビア語にも訛りは聞き取れなかった。アルジェリア出身だとは言っていたが。

この辺りの町の雰囲気は、本当にアラブ諸国の町のようで、カフェにおっさんが昼間からたむろしている姿などはカイロを彷彿とさせる。きっとオランやアルジェというのはこういう雰囲気なんだろう。カフェの一軒に入り、エスプレッソ(エクスプレス)を注文すると、出てきたのは確かに見た目はエスプレッソなのだが、何となくカルダモンのような香りがする。おそらく機械や器はエスプレッソ用だが、使っている豆がアラブコーヒー用なのではないだろうか。

ともあれ、パリでもずいぶんと多くの種類のアラブポップスのCDが手にはいることが分かった。また大手では、この前日に訪れたバスチーユのfnac musicは品揃えいまいちだったが、レ・アールにあるfnacには本当にたくさんのアラブポップスCDが並んでいた。バルベスにもVirgin Megastoreがあったが、時間が無くて見ることはできなかった。

チャイナタウン [旅行]

766c7029.JPGパリ13区のチャイナタウンへ行く。

集合住宅の中のベトナム料理屋のフォーが大変おいしうございました。店員はみなベトナム人のようで、フランス語ぺらぺらの人もいれば、フランス語のできない人もいる。2世、3世と、ニューカマーが混在しているのか。

通りには中華料理、ベトナム料理、タイ料理屋がいっぱい。「陳氏百貨商場」なるスーパーで椰子の実ジュースなどを買って飲みながらそぞろ歩いていると、ここがパリであることを忘れてしまいそうになる。

写真は団地の中のビデオ屋の風景。韓国系移民の数が少ないせいか、韓流ブームはさすがに及んでいないようだが、台湾経由とおぼしき「宮廷女官チャングムの誓い」のポスターが貼ってあった。雪など珍しくもない国では「冬ソナ」も苦戦を強いられるかも知れない。

仕事用の覚書 [旅行]

c943c9ab.JPG下記のフランス国立図書館(BnF)の利用について、出国前に何が必要か尋ねておこうと思い、公式サイトのこのページ、「Write to BnF」から英語で質問をしておいた。

(それにしても当然BnFの公式サイトはフランス語で書かれているわけだが、英語で書かれているページも少しだけあって、そこにいくにはトップページから"access handicap"という所に進む。フランス語のニュアンスは細かくは分からないけど、英語を使うのに"handicap"という言いぐさはすごいと思う)

そうすると、5日ほどで「英語で」返事が来て、そのメールには懇切丁寧にいろいろ書いてあった。詳しくは、メールで勧められたこのページ)を参照。「研究用図書館(Bibliotheque de recherche)」の利用登録のために必要な書類や、料金について説明されている。ただし仏語。

かいつまんで話すと、僕の場合は最初の日にリシュリュー館(旧館)の方のService de l`Orientation de lectureなる部局に行き、そこで図書館員の方と面接。面接と言っても、こちらはパスポートと大学からもらった身分証(英文)を提示したくらいで、仏語力を問われる試験などは特に無かった(笑)。学生か、専門職かによって、必要となる書類が違うようだが、まあ大きな問題にはならないと思う。必要なのは身元がはっきりしていること、ということのようだ。マルチプル会員(1年期限で15回まで利用可能)の登録をして、30ユーロを払う。

あと、このサイトでは、あらかじめ利用登録申請がオンラインでできるようだ。しかし10日ほど時間が掛かるというので、今回は利用する時間もないまま出国してしまった。

写真はBnFの旧館こと、リシュリュー館。新館は別名フランソワ・ミッテラン図書館としてかなり立派な建物となって、現代建築ファンたちの目を引きつけているようだが、旧館もどっこい生きている。

パリの話題 [旅行]

f1bbe986.jpg今回の調査はもちろんカイロがメインである。なんでもVirgin Megastoreができたとかできそうだとかいう噂もあるから、それを確かめないと、って何の調査だ。>自分

しかし、パリでも調査活動を怠るつもりはない。パリと言えば「ライ」の一大中心地だ。だから何の調査なんだ。

ライと言えば、当然ライ大好きのサイトは要チェックだが、次のサイトにもフランスのマグリブ移民の音楽のことがいろいろ書かれており、大変参考になる。一応モロッコが中心のサイトではあるが。

アラブ音楽入門 モロッコ・マグレブ 音文化の魅力に迫る

ちなみにパリでアラブ系のたくさん住むバルベスとかシャトー・ルージュの辺りは、映画の『アメリ』の舞台となった18区(のそば)だ。だからどうした。

ベーエヌについて [旅行]

フランス国立図書館、登録、でググって出てきためぼしいサイト。参考にするため勝手にリンクを張らせてもらいました。

フランス国立図書館のシステム

パリ・ロンドン三図書館印象記

書燈25-2

特集 海外図書館事情

http://www.kishimoto.sd.keio.ac.jp/tour2004/p/p_details.html

パリ笛吹き旅日記

それにしても、
今回、 久し振りにこの“手写本室”を訪れたが、 先ず驚いたことは10年前よりも閲覧手続が一層煩瑣になっていたことである。

などと書かれると、自分は本当にパリに行ってたった一週間くらいで調査ができるんだろうかと不安になってしまう。この無為無策ぶり。

カイロの銭湯 [旅行]

35b7d1f7.jpg9月にはパリからカイロに直行し、しばらく滞在する予定。実に3年ぶりの訪問となる。主目的はもちろん文献調査だが、その他寄りたいところは山ほどある。

例えば...

Saudi Aramco World : The Joys of the Bath


とある石油会社が隔月刊で刊行するSaudi Aramco Worldなる雑誌で、カイロのハンマームに関する特集が組まれていた。それによると、今現在も歴史的なハンマームがhalf dozenほど営業しているという。

僕もカイロ留学中、かろうじて一箇所ハンマームを訪れたが(「カイロ・ハンマーム体験記」参照)、それ以上に由緒正しげなものも残っているらしい。スルタン・カラーウーンの病院附属ハンマームなど、是非行っておかねば。

(付記)あと、英字雑誌のこんな情報も。
et - Full Story

(付記2)それから日本語でこれ関係の情報をググって見たら、結構そっち系のディープな情報も見つかったので、ちょっとびびっています。このエントリごとあとで削除するかも。

パリで寄るところメモ [旅行]

8月後半からパリに行ってきます。これはそれ用のメモ。

Biblioth鑷ue nationale de France:通称ベーエヌ。数年前にベルシー地区に新しい建物がオープンしたらしいが、今回用事があるのは多分リシュリュー通りにある古い方。東洋写本のコーナーについてはこれ。
BnF-Collections : D駱artement des Manuscrits (division orientale)

L'INSTITUT DU MONDE ARABE:通称イマ。今回泊まる予定の宿から近そうで、楽しみ。ショップにはCDも売られているそうで、さらに楽しみ。

La Grande Mosquee de Paris:モスク(モスケ)。銭湯が併設されているという。「イブラヒムおじさん」の映画で使われていたあの銭湯だろうか。

トルコの研究許可(一部の方々向け) [旅行]

この3月に行ったトルコでの研究調査について、一部の方々(現実世界での知り合い)から「どうやって許可をとったか」との質問を受けた。というのも、2004年4月辺りから許可申請の方法が変わり、従来の方法が通用しなくなっているからだ。

と言うわけで、以下、僕がいろいろな人から聴いて試した方法を備忘録代わりにまとめて掲載しておく。トルコ語の会話能力ゼロの僕が、なんとか許可を取って研究調査を行うことができたのは、ひとえに情報を提供してくれたみなさんや、現地で案内をしてくれたみなさんのおかげであることは言うまでもない。

まずは在トルコ日本大使館のサイトトルコで研究留学をされる方、撮影を行う方へというページから、申請書(Application Form、docファイル)をダウンロードする。 ○トプカプサライ付属図書館、およびトルコ・イスラム芸術博物館の場合 The Topkapi Palace Museum Contact Information 上↑のサイトにあるContact address for researchers(住所等は下)に申請書を送る。 Kultur Bakanligi Anitlar ve Muzeler Genel Mudurlugu, II. Meclis Binasi, 06100, Ulus, Ankara, Turkey. Telephone: 90-312-3104960 Fax: 90-312-3111417 僕の場合、最初にFAXで送ったのだが返事がなく、その後EMSで再送した。EMSは普通、郵便局のサイトからネット追跡サービスがあるのだが、トルコへの郵便物に関してはサポート対象外のようである。おかげで、申請書が無事アンカラに着いたかどうかがさっぱり分からず冷や冷やした。また、トプカプと芸術博の二ヶ所での研究許可を申請するのに、送り先は上記の文化省あてにし、使用機関二ヶ所については申請書の項目(20)にちらっと記しただけ、つまり、二ヶ所の申請に一枚の申請書で済ませてしまったので、受理されるかどうか心配だったのだが、まあ許可は下りたので問題はなかったようだ。許可が下りたかどうかは、トルコ入国後にトプカプと芸術博のそれぞれの事務所で確かめるまで分からなかった。申請書送付から許可受理まで2ヶ月半かかったことになる。 ○スレイマニエ図書館、およびセリムアー図書館の場合 日本の指導教官に館長宛の推薦状を書いてもらったおかげで、着いたその日から自由に閲覧させてもらえた。もちろん、現地で案内・仲介役をやってくれたS氏の尽力のおかげでもある。 とは言え、使用に際しては、上記と全く同じ書式の申請書に記入して提出するよう言われた。だから、推薦書も仲介役も持たない人でも、申請書を出しさえすれば割とすぐに許可が下りるのかも知れない。あらかじめスレイマニエ宛の申請書も用意しておくのが良いと思う。 なおカドゥキョイにあるセリムアー図書館は、スレイマニエ図書館の管轄下にあるので、スレイマニエの許可さえ取れていれば自由に利用できる。 ○バヤジト国立図書館の場合 ここは推薦状も仲介もなく、「研究許可が欲しい」という意味のトルコ語を丸暗記して単身乗り込んだ。無謀なことをしたものだと思う。 しかし、しばらく待たされはしたものの、その場で申請書を記入させられ、その日から写本閲覧を許可された。申請書はやはり上2件と同じもの。これも日本から準備していくにこしたことはないだろう。 ...以上。まとまりなくだらだらと書いてしまった。やはり現地での活動の正否には、トルコ語で会話できるか否かというのは非常に重要なファクターとなる。今回も「あちゃー、トルコ語勉強せねば!」と言う思いを強くして帰国したのだが、帰ってきてしまうとそんな思いもみるみる薄まってしまい、勉強用に買ってきたトルコ語の本はどこかへと消え失せ、mor ve otesiの歌詞さえ未だに訳せない有様である。 また、ここに書いた方法が唯一の方法でもなければ、絶対確実な方法というわけでもないと思う。今後誰かがより確実な方法を確立して、ちゃんとしたマニュアルを作って頂きたい。

メガストア! [旅行]

db3bc078.JPGトルコの話ばかり書いているので、当ブログ管理人もすっかりトルコポップスに鞍替えしてしまったかと思われてしまっているかも知れないが、ところがどっこい、今回の旅行では行きと帰りの都合二回、ドバイに立ち寄って、アラブポップスのリサーチも欠かしていない。

写真はドバイ随一の巨大ショッピングモール、「シティーセンター」内にある、ヴァージン・メガストア。
今回のドバイ調査で印象的だったのは、イラク音楽への注目である。特にメガストアでは、アラブポップスは「湾岸」「レバノン」「エジプト」に分類されていたのだが、その中に一棚「イラク」と銘打たれたコーナーが設置されており、カーゼムや前述のイルハム・マドファイーの他、ある程度の歌手のCDが並べられていた。いや、元もとイラクコーナーはあったのかも知れないが、しかしこれだけのスペースをイラクに割くというのはやはりここ最近のトレンドなのではないだろうか。今後イラクがアラブポップスの第4極となるのか、注目である。ちなみに「マグリブ」というコーナーは存在せず、ハレドなどライ歌手はワールドミュージック扱いであった。 あともう一点、どのCD屋でもナンシー・アジュラムをレコメンドされた。もはや彼女はアラブポップスを代表する歌手なのだ。ホテルのミュージックチャンネルや、エミレイツの機内放送でも、彼女のビデオがよく掛かっていた。僕としては最新のクリップ「オル・タニ・ケダ」が見られて大満足である。 この辺のアラブポップス最新事情はいずれ改めて書くつもり。

スレイマニエ横 [旅行]

3431e07e.JPGスレイマニエモスクとはかのスレイマン大帝が建造した巨大モスクだが、大帝はその周りに図書館、病院、商店、隊商宿などなどの入った複合施設も同時に建設している。これらはイスラム世界特有の財産寄進制度「ワクフ制度」を利用したものであるが、ワクフとはそもそもアラビア語で「停止する」の意味で...とこの話を続けるとちょっと大変なことになってしまう。

今回紹介したいのは、スレイマニエのかつての周辺施設の遺構を利用して営業しているカフェのこと。その名もラーレ・バフチェスィ(チューリップ庭園)。
『歩き方』に載っている高級レストラン『ダーリュッズィヤーフェ』の隣にあるこのカフェ、建物の古い表示には『ダーリュッシファー(癒しの館)』と書いてあるので、スレイマニエが作った病院の遺構なのかも知れない。 門をくぐり階段を下りると庭園があり、夏の間はそこで茶や水タバコを供してくれるらしい。あいにく僕の滞在中、庭園を利用できたのは一度だけだった。その日は珍しく天気の良い日で、従業員がみなでチューリップを植えていた。これからの季節はさぞきれいな花を咲かせてくれるだろう。 冬のあいだは庭園からさらに奥に進み階段を上ったところにある室内営業。しかしこの薄暗くて素っ気ない室内も、大帝の作った病院跡と思うとなかなか風情があるのだ。 図書館や大学のそばという立地のためか、利用客は学生風の若者が多かった。僕も、図書館帰りには必ずこのカフェに立ち寄り、1人水タバコで癒されたものだった。 この店は例によって水タバコ中毒の知人H氏の紹介で尋ねたのだが、最初に入った日には、入るなり店員に「Hを知っているか?」と話しかけられ、さっそくマークされてしまう。いや、マークされると言ってもうざったく話しかけてくることは一切なく、いつも適度に放っておいてくれるので快適な癒しスペースは確保できた。今回のトルコ滞在中、もっともよく通ったカフェとなった。

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