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失われた写本の謎 [読書]

輝く日の宮
『源氏物語』には失われた一巻があった!というお話。新聞で紹介されていて興味を持った。

丸谷氏の文章は、実を言うと新聞で見かける論説の他には読んだことがなかった。旧仮名遣いについて行けるか不安はあったが、読んでいくうちに、「さうだらうと思つた」などと言うような文体も気にならなくなり、あっという間に読めてしまった。

旧かな以上に気になったのは、「あたし」という一人称。女子中学生から四十代の大学助教授(女性)まで、みな「あたし」である。空想の中の紫式部にまで「あたし」と言わせているのにはびっくりしたが、博学な丸谷氏のこと、ひょっとすると「あたし」という表現にも何か言語学的に正しいという裏付けがあるのかもと思ってしまった。

で、「あたし」を使うからと言うわけでもないが、女性の描き方なんかはうすっぺらい。いかにも中年男性好みの女性像という感じがする。まあ薄っぺらいと言えば男性もそうだったか。それはともかく。

あと、主人公が国文学研究者という設定になっていて、研究会で大御所をこてんぱんに批判したら本が出版できなくなってしまったり、シンポジウムで彼女に嫉妬する他の研究者から品のない嫌みを言われたりとか、学界の裏話的なエピソードがちりばめられている。しかしこれらのエピソードも何となく物足りなく感じてしまうのは、最近まで一連の「マックスヴェーバー論争」を読んでいたせいだろうか。事実は小説よりも何とやらだ。

で本題だが、実は僕は、「○○の失われた一冊の謎を追え」みたいな話は大好きである。源氏の散逸巻というのはどうやら丸谷氏の創作ではなく、実際に学問的な裏付けのある話だそうで、もうそれを聞くだけでわくわくしてしまう。しかし、残念ながら僕は源氏を読んだことがない。あさきゆめみしさえ読んでいないので、若菜の巻の文体がどうだこうだと言われても今ひとつ実感が湧かなくて、ちょっと残念である。そういう文体の違いが、主人公が散逸巻の謎を突き止める重大な根拠の一つとなっていただけに。

しかし、散逸巻の秘密が、作者である紫式部とパトロンにして編集者(にして愛人)である藤原道長の2人の間の営みにだけ帰せられてしまうと言う筋書きは、おもしろくもあり、不満でもあった。そもそも源氏という作品は、本当に紫式部の著作であると言えるのか?作品と作者の間に一対一の関係が取り結べるような類の作品だったのか?僕の好みとしてはやはり、藤原定家あたりがなんらかの意図から源氏の一巻を封印してしまった、みたいなオチが読みたかったかな、と思う。その場合の定家は、思いっきり邪悪で冷血な盲目の修道士みたいな造形で描いてほしい。
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