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喧嘩上等な研究書 [読書]

マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊 (MINERVA人文・社会科学叢書)

2002年の初版以来、学界の注目を集めている書らしい。上記アマゾンでのカスタマーレビューの白熱度を見れば、この本の持つインパクトが伺える。著者の批判はマックス・ウェーバーに止まらず、ウェーバーに追随する日本の社会学者にも向けられており、日本のウェーバー学を牽引する折原浩氏は著者に対して猛反論を展開している。

タイトルからしてそうなんだけど、「あおるだけあおってやれ」と言う態度が文体からにじみ出ている。これだけ喧嘩上等な研究書っていうのも珍しいので、まあおもしろいと言えばおもしろいのだが、「情緒的」だとか「小児じみた」だとか「巨人」の肩に乗る「子供」だとか言って批判されている日本のウェーバー学者の側は、そりゃたまったもんじゃないだろう。記述は総じて饒舌、冗長。ウェーバーが付している長々しい「注」について批判する割には、自分の注がむっちゃ長い。本書に書かれた内容を普通に論証するだけならば、半分の分量で済むんじゃないかと思える。くだくだしく攻撃的な表現を多用し、2ちゃんの書き込みを彷彿とさせる。そのくせ「せざる得ぬのである」なんていう妙な言い回しが出てきたりする(「を」は?)。まあ、偉大な家父長ウェーバーを論駁するには、また「一読者」にすぎない著者が自分を弁護をするためには、これだけの回りくどさが必要だったということだろうか。

くどくて自分語り的な文体に目をつぶれば、というか、その文体自体を面白がって読むことに慣れてしまえば、本書の論旨は明快なのですんなりと飲み込めてしまう。古典的名著『プロ倫』で、ウェーバーがいかにいい加減な資料引用をしているか、いや、それは実はいい加減なのではなくて、都合の悪い事実を隠蔽しようとしているらしいのだが、ともかくウェーバーによる作為的な資料操作のあり方を細かく検証している。本書を読む限り、ウェーバーの資料操作に関する著者の指摘は的を射ているように思えるのだが、社会学の観点からするとどうなんだろうか。

正直言って、僕は今まで『プロ倫』なんてろくすっぽ読んだことない素人なのだが、本書で著者が『プロ倫』のエッセンスを紹介すればするほど、『プロ倫』の本質主義的な物言いが気になって仕方なくなってしまった。だって、プロテスタントの諸民族こそが資本主義の精神を生み出すのに適していた、っていう主張なんでしょう、つまるところ?それって、ちょんまげを結っていた日本民族はそもそも狩猟民族であり、したがって文明開化に乗り遅れずに済んだのだ、みたいな司馬遼太郎的主張と同レベルな、『プレジデント』流の文明論なんじゃないの?だから、本書の第四章で著者がまがまがしく『プロ倫』の根幹となる論証部分を論駁している下りを読んでも、「へー」という感想しか持たなかった。

あと、著者は「文献学」の手法を用いている、と言う風に語っているけど、これは自戒を込めて言っておきたいのだが、自説に都合のいいところだけを一生懸命になってソースをあたる、っていうのは本当の文献学ではない(はずだ)。文献学って言うのはもっとこう、ストイックで、一山全部掘り返してみてスプーン1杯分くらいの砂金が取れれば御の字、という感じではないか。初めっから金脈の位置が分かっていて、それをぐりーんと掘り進んでいってお宝ゲット、みたいなのはちがうと思うのだ。この本の著者は、それこそウェーバーの掘ろうとしていた金脈の位置はあらかじめ分かっていたのだから、どんなに外国語聖書の初版本にあたろうと、たいした労力ではない。学者として当然の作業だ。もちろん、その当然の作業をウェーバーが怠っていたと言う指摘は正しいのだが、まあ100年のタイムラグがある相手にそんなこと言ってもねえ。ともかく、こういうのを文献学と呼んでほしくない。むしろ、「ウェーバー学」と呼ぶのがふさわしい。

ともあれ、折原氏の反論書を注文したので、到着を待つことにしたい。今の自分にはちょっとデトックスが必要かも。
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