あれはひとりの声だったのか [読書]
ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実
「~の真実」とかいうとなんだか暴露本っぽい雰囲気がして、「今明かされるナイマ夫人との離婚の真相」とか「マッコイとエルヴィンはムチャ険悪説」とか「コルトレーンはUFOに殺された」とかそんな内容を期待してしまうのだが、そうではない。(当たり前だ)
コルトレーンの当時のバンド・メンバーやスタッフ、それから友人、リスナー、家族たちのインタビュー、さらには貴重な録音テープやレコード会社からの支払い明細までを駆使して、『至上の愛』吹き込み前後のコルトレーン周囲の状況を克明に再構成した研究書。
無知な僕にとっては、「コルトレーンがマイルス・バンドを脱退したのは33歳(つまり、今の僕の年齢)」という事実がすでに感動ものなのだが、そんな程度じゃなくてもっと中身のある新事実がてんこもりだ。
たとえば、『至上の愛』第4楽章のコルトレーンのソロは、レコードジャケットに載っている自作の詩のフレーズをそのままサックスで読んだもの、なんてこと、ひょっとしたらコルトレーン・ファンにはもはや常識なのかも知れないけど僕にとっては目から鱗の新発見だった。あと第1楽章での声による「ア・ラヴ・スプリーム...」という詠唱は、実はコルトレーンひとりの声がオーバーダビングされたものだっていうこととか。
個人的な話をすると、大学時代にサークルでサックスを吹いていた僕だけど、コルトレーンはアーティストと言うよりは単なる「教則本」、つまり、彼のソロフレーズを真似てメトロノームに合わせて練習する、というくらいの存在だった。もちろんCDを聴いて「かっこいいなあ」と感じてはいるわけだけど、アーティストとして、あるいは思想家としてどれほど当時の社会にインパクトを与えたのかなんてことは、あんまり考えはしなかった。そもそもジャズ史にもアメリカ現代史にも暗い僕は、『至上の愛』の発売がマルコムX暗殺の年だった、なんていう単純な一致さえも知らなかったわけだ。
こんな巨人の足並みに自分の人生を重ね合わせてしまうのも何とも畏れ多い話だが(それでもついつい考えてしまうのだが)、「何でも教えて君」だったコルトレーンがマイルスに愛想を尽かされて、その後でやたらと面倒見のいいセロニアス・モンクの個人授業をみっちりと受けて、アーティストとして独り立ちする下りなどは、とてもリアルに細かく描かれていて面白かった。それから「黄金のカルテット」のメンバーを徐々に見付けていく部分も、なんだかRPG風でいい。「エルヴィンが仲間に加わった。パーティーのレベルが上がった。冒険を続けますか?」
もう一つ、この本で知った小ネタとしては、コルトレーンの曲の版権を取り仕切るアリス夫人のところにスパイク・リー監督が来て、『至上の愛』という曲名を自分の映画のタイトルに使わせて欲しいと頼みに来たが、見事断られたというエピソード。映画の内容(暴力シーンの有無など)がコルトレーンの思想と合わない、と言う理由だったそうだが、それで『モ・ベター・ブルース』なんてヘンテコな名前の映画だったのか、と納得。
そう言えばあの映画の冒頭で、ウェズリー・スナイプス演じるサックス吹きが延々とソロを取って、バンドリーダーである主人公デンゼル・ワシントンを怒らせるというシーンがあったけど、あれはコルトレーンがマイルス・バンドにいた頃からやたらと長いソロを取っていたコルトレーンを意識したシーンだったのかな、と思った。自分の内にある音楽を形にするためにがむしゃらに吹きまくったコルトレーン(と、それを理解して好きにさせていたマイルス)に対して、ウェズリーの役の方は自分の名前を売るための功利的なロング・ソロ。そんな対比で、商業主義的になってしまった現代ジャズ・シーンをスパイク・リーなりに批判していたのかも知れない。
ともあれ、やっぱりジャズは年取ってから聴くものだよなあ、などと思いながら、久々に『至上の愛』を聴いてみることにする。もちろん、ライナーノーツの「詩」を読みながら。
「~の真実」とかいうとなんだか暴露本っぽい雰囲気がして、「今明かされるナイマ夫人との離婚の真相」とか「マッコイとエルヴィンはムチャ険悪説」とか「コルトレーンはUFOに殺された」とかそんな内容を期待してしまうのだが、そうではない。(当たり前だ)
コルトレーンの当時のバンド・メンバーやスタッフ、それから友人、リスナー、家族たちのインタビュー、さらには貴重な録音テープやレコード会社からの支払い明細までを駆使して、『至上の愛』吹き込み前後のコルトレーン周囲の状況を克明に再構成した研究書。
無知な僕にとっては、「コルトレーンがマイルス・バンドを脱退したのは33歳(つまり、今の僕の年齢)」という事実がすでに感動ものなのだが、そんな程度じゃなくてもっと中身のある新事実がてんこもりだ。
たとえば、『至上の愛』第4楽章のコルトレーンのソロは、レコードジャケットに載っている自作の詩のフレーズをそのままサックスで読んだもの、なんてこと、ひょっとしたらコルトレーン・ファンにはもはや常識なのかも知れないけど僕にとっては目から鱗の新発見だった。あと第1楽章での声による「ア・ラヴ・スプリーム...」という詠唱は、実はコルトレーンひとりの声がオーバーダビングされたものだっていうこととか。
個人的な話をすると、大学時代にサークルでサックスを吹いていた僕だけど、コルトレーンはアーティストと言うよりは単なる「教則本」、つまり、彼のソロフレーズを真似てメトロノームに合わせて練習する、というくらいの存在だった。もちろんCDを聴いて「かっこいいなあ」と感じてはいるわけだけど、アーティストとして、あるいは思想家としてどれほど当時の社会にインパクトを与えたのかなんてことは、あんまり考えはしなかった。そもそもジャズ史にもアメリカ現代史にも暗い僕は、『至上の愛』の発売がマルコムX暗殺の年だった、なんていう単純な一致さえも知らなかったわけだ。
こんな巨人の足並みに自分の人生を重ね合わせてしまうのも何とも畏れ多い話だが(それでもついつい考えてしまうのだが)、「何でも教えて君」だったコルトレーンがマイルスに愛想を尽かされて、その後でやたらと面倒見のいいセロニアス・モンクの個人授業をみっちりと受けて、アーティストとして独り立ちする下りなどは、とてもリアルに細かく描かれていて面白かった。それから「黄金のカルテット」のメンバーを徐々に見付けていく部分も、なんだかRPG風でいい。「エルヴィンが仲間に加わった。パーティーのレベルが上がった。冒険を続けますか?」
もう一つ、この本で知った小ネタとしては、コルトレーンの曲の版権を取り仕切るアリス夫人のところにスパイク・リー監督が来て、『至上の愛』という曲名を自分の映画のタイトルに使わせて欲しいと頼みに来たが、見事断られたというエピソード。映画の内容(暴力シーンの有無など)がコルトレーンの思想と合わない、と言う理由だったそうだが、それで『モ・ベター・ブルース』なんてヘンテコな名前の映画だったのか、と納得。
そう言えばあの映画の冒頭で、ウェズリー・スナイプス演じるサックス吹きが延々とソロを取って、バンドリーダーである主人公デンゼル・ワシントンを怒らせるというシーンがあったけど、あれはコルトレーンがマイルス・バンドにいた頃からやたらと長いソロを取っていたコルトレーンを意識したシーンだったのかな、と思った。自分の内にある音楽を形にするためにがむしゃらに吹きまくったコルトレーン(と、それを理解して好きにさせていたマイルス)に対して、ウェズリーの役の方は自分の名前を売るための功利的なロング・ソロ。そんな対比で、商業主義的になってしまった現代ジャズ・シーンをスパイク・リーなりに批判していたのかも知れない。
ともあれ、やっぱりジャズは年取ってから聴くものだよなあ、などと思いながら、久々に『至上の愛』を聴いてみることにする。もちろん、ライナーノーツの「詩」を読みながら。
2006-09-12 12:05
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