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校訂本が待たれる [読書]


イブン・バットゥータの世界大旅行―14世紀イスラームの時空を生きる

13,14世紀の世界を説明するにあたりアブールゴドを引いている。その他、「何とか海域世界」という風に地域をブロックに分けて理解する方法や、モンゴルの大移動によって引き起こされたマルチ・ディアスポラなどについては、「壮大な見取り図」という感じなので、さらなる史料的根拠が必要な気がする。

イブン・バットゥータがたどったであろうコースを著者自ら実際にたどりなおしたり、各地の文書館やモスクと直接交渉して写本を探したりというのが、なんとも楽しそう。そういった下りを是非読んでみたかった。あとがきで、「私のそうした研究の旅とイブン・バットゥータの旅とを重ね合わせながら、まとめるつもりであった」が実現しなかった、とある。残念。

単なる揚げ足取りには終わらないよう [読書]


モンゴル vs.西欧 vs.イスラム 13世紀の世界大戦

冒頭、モンゴル軍による虐殺行為の描写に驚く。彼らのあまりの残虐ぶりに、ではなく、描写のあまりのナイーブさに、である。さらに読み進むと、挿図として杉山正明『モンゴル帝国の興亡』から地図が引用されており(p.23)、さらに驚く。この著者は、杉山氏の本を読んだ上で、このように単純な「モンゴル=野蛮、後進」という考えを持ち続けているのだろうか?
結局最後まで読んだ私の感想は、著者は杉山本を読んではいない、挿図は編集者が気を利かせて、同じ講談社から出版されている杉山本から数カ所引用したに過ぎない、ということだ。しかし編集者も、勝手に挿図に使うくらいなら著者に読むように勧めてあげればよいのに。 一方、著者の言う「三つどもえ」のもう一つのファクターであるイスラム世界の記述に関しても、気になる点がいくつかある。エジプトのスルタン、「アル・サリ・アユーブ」の政策は「酷薄、専横を極めて、皆を震え上がらせてきた」という表現(p.61)、随所に見られる「サラセン軍」との表記など、細かいことを挙げればきりがない。この点に関しても、編集者が同じ講談社メチエからでている佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン―十字軍と戦った男』を勧めれば、かなりの数の細かいミスは防げたはずだ。少なくとも「アユーブ朝」にはならなかったろう。 さて、様々な誤記や事実誤認の中でも、特に見逃せない点があった。モンゴル人が「基本的に仏教徒」であり、「東アジア人」である、という認識である。当時のモンゴル人は、シャーマニズム信仰を有しており、また出身地域から言えば「東」ではなく「内陸」アジアというのが正しい。言うまでもなく著者は本書において、現代国際社会での対立構造を、13世紀ユーラシアの状況にだぶらせて描いている。そして西洋対イスラームの対立に参与する第三のファクターとして、モンゴルをとらえているのが本書の眼目であろう。このことを現代社会に引き戻すなら、イスラム世界とアメリカとの対立に、われわれ日本人がどのようなスタンスを取るべきか、という問題を、過去の歴史から逆照射するという問題意識を持っているように見受けられるのである。このような目的意識が初めにあったればこそ、モンゴルを(現代日本人と同様)仏教徒であり、東アジア人であるととらえてしまうのである。 今、日本はアメリカ追随ではなく、主体的なスタンスを持って、国際問題に取り組まねばならない、と言う主張が、著者の意図するところであれば、その意図は何ら間違ってはいない。しかし、その必要性を主張するあまり現代日本を13世紀モンゴルと同化させてしまう見方は、現代の対立が13世紀以来一貫して続いてきた所与のものであるかのような誤解を与えてしまうと言う、大きな危険をはらんでいると言わざるを得ない。 9.11以降のブッシュの「十字軍」発言や、フセインが米軍を「モンゴル軍」になぞらえた発言など、現代人の心の中にも13世紀の「世界大戦」は確実に影を落としており、それは著者が前書きに記すとおりだ。しかし、このことは当時の対立が一貫して続いてきたことを意味しない。現在のような状況になって、再構築された歴史として存在するのに過ぎないのである。過去の歴史を研究する者としては、いたずらい対立の歴史を説いて、その根の深さを嘆くということには、十分に注意を払いたいものである。

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